『毒親と呼ばないで』

親は100%毒でしたか?

それは支配ではなく防衛だった/『毒親』と呼ばれた母親の孤独

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支配は、防衛だったのかもしれない。

子どもが生まれたその日から、女性は“お母さん”と呼ばれるようになる。
祝福され、笑顔で迎えられる裏側では、同時に言葉では言い尽くせないほどの責任とプレッシャーを背負わされることになる。

「お母さんなんだから」という呪い


子どもに何かあったとき、世の中が真っ先に探すのは「母親の顔」だ。
親の顔が見てみたいっていうやつね。
なぜこんなことに?どう育てたの?どんな家庭だったの?
まるで“母親の育て方”が、子どもの人格や行動のすべてを決めているかのように。

そして、いつの間にか無言の圧力を感じるようになった。


「女性には母性があるから」「お母さんなんだから」「分かって生んだよね?」


だけど、そんなはずない。母親も、一人の人間だ。
産んだからって、自動的に完璧なお母さんになれるわけがない。
母性は“初期装備”じゃない

“母性”という言葉に、どこか神聖さを感じる人も多いかもしれない。
けれど、実際には、母性は生まれた瞬間に備わっている「初期装備」なんかじゃない。

むしろ、試行錯誤や自己否定を繰り返しながら、ようやく少しずつ育まれていく「後天的なもの」だと私は思う。

時間になったらおっぱいをあげて、泣いたらオムツを替えて、それが育児だと、もしそうだと思っているなら、大間違い。
それならAIロボットで足りる。

母親というのは、そんな単純作業の連続じゃない。
泣き止まない我が子の理由を探って、必死で自分を責める夜。
眠れないまま朝を迎え、「母親失格かもしれない」と思ったことが一度もない母なんて、いるだろうか?

防衛が、支配に変わるまで

「何かあったら母親が責められる」
そうわかっているからこそ、母親はいつも“備えて”いる。

何か起きたときに子どもが傷つかないように、世間から後ろ指をさされないように、
「しっかり育てなきゃ」「ちゃんとさせなきゃ」と自分に言い聞かせる。

でもその“備え”が過剰になると、それはやがて「支配」と呼ばれるようになる
言葉遣いに細かく注意し、友達関係を管理し、進路や将来にまで口を出してしまう。

それは「失敗を恐れる母親の防衛本能」であり、
「愛」や「正しさ」を信じすぎたがゆえの行動かもしれない。

本当は、守りたかっただけ

もしかしたら、あの過干渉も、あの強い言葉も、ただただ“守りたかった”だけなのかもしれない。
自分のためにじゃない。
子どもの未来のために。
そして、必死に母親としての役割を全うしようとしただけだった。

もちろん、それが“支配”と受け取られてしまうこともある。
実際に、心を傷つけられてしまった子どももいるかもしれない。

だけどそれでも私は、母親を一方的に「毒」と呼ぶ風潮には、やっぱり違和感がある。
母親もまた、守られなかった存在かもしれないから。

夫や家族からの理解が得られず、一人で子育てを抱えていた母親もいる。
「母親なんだから当然でしょ」と言われ、誰にも本音を言えないまま、感情を抑え、泣くことも許されずに、ただ子どもだけを見つめて生きてきた人もいる。

そんな母親の“行き過ぎた防衛”を、私たちは果たして「支配」と呼ぶだけで良いのだろうか。

「毒親」という言葉ではくくれない

確かに中には、毒を超えて犯罪的な言動に及ぶ親もいる。
それは、もう“毒親”などという生ぬるい言葉で語るべきではない

けれど多くのお母さんたちは、「支配的だった」かもしれないが、
それは「自分たちを守るための必死の策」だったのではないか。

最後に

母は孤独だった。誰も頼れなかった。
でもそれでも母であろうとした。

誰かを守ろうとする人ほど、「強くなきゃいけない」と、自分を追い込んで、誰にも弱音を吐けないまま、いつの間にか孤立してしまう。
母親はいつも、板挟みの中で生きている。
社会からの期待と、家族からの無理解、子どもへの愛と、自分の不安。
それでも歩き続けてきたお母さんたちの姿に、もう少しだけ、理解と優しさが向けられる社会であってほしい。

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