親は100%毒だったのか…

家族を内側から崩そうとする見えない力

相変わらず「毒親」という言葉が、流行語のように使われ、家族の絆を断ち切る事に罪悪感を持たない人が増えたと感じています。


国会では選択的夫婦別姓などという、多くの人が必要性を感じない議論も燻りながらも未だ続いています。
これは私個人の感想に過ぎませんが、
一見まったく別のテーマに思えるこの動きに、共通する流れを感じています。

まるで何か強い力が働いて「家族」という、何者にも変え難い関係性を揺さぶっているのではないか……そんな恐怖感を覚えるのです。

「毒親」という言葉への違和感

※解りやすく毒親という表現を使っていますが、私はこの概念を手放しています。

どんな親も完璧ではありません。
良かれと思ってした事が、子どもの為にならなかった部分もあるでしょう。
でもその時は必死だからわからなかった。
子育てに正解はない中で、多くの親はその時々で、精一杯子育てをしてきたはずです。

夫婦や親子というのは、衝突しながらもお互いに学び合う関係です。
絵本に出てくるようなお母さんは、実際には居ないし、社会に出たらもっと色んな人間がいます。
あなたが毒親と呼ぶ、それ以上に強い毒を持った人に出会うかもしれません。

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選択的夫婦別姓との共通点

夫婦別姓の議論は、個人の尊厳や男女平等の観点から議論されているようですが、選択的とは言え、夫婦別氏を選んだ場合、兄弟が違う名字を名乗ることも出てくるわけです。

これは明治以来の夫婦一体となる家族制度や、良き日本の伝統を壊すと私は思っています。


名字という“一つのまとまり”を象徴する絆が失われ、家族が分断されていくように思えてなりません。
私には、「毒親」という言葉も、それと同じ方向性を持っているように思えるのです。
つまり、家族を単に個人の集まりのような、いつでも分離出来てしまう形へと変えてしまう得体の知れない強い力です。

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家族とは「お別れを言わない存在」

私が想う家族とは、『お別れの言葉を言わない存在』です。
お別れの挨拶をする時は、親が亡くなるとき。
それ以外は「おかえり」「いってらっしゃい」「またね」「気をつけてね」と言い合って、手は振るけど「さよなら」は言わない。
たとえ物理的に離れていても、心で繋がっている。
それが、家族だと思うのです。

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家族をどう捉えるのか

「毒親」「親ガチャ外れ」という言葉や、「夫婦別姓」という制度は、一体誰のため?誰が幸せになるためのものなのでしょうか。
私には、私たち日本人の心の拠り所をじわじわと削いでいくものにしか思えないです。



この世界で本当に天涯孤独になったら、たった一人取り残されたと感じ、その時人は、心の拠り所を失うと思います。
ただ存在してくれることがこんなにも自分の心を支えてくれていたのだと気づくことでしょう。

家族は安心の最後の砦であり「お別れの挨拶をしない関係」です。
この価値を、私たちはどこまで大切にできているでしょうか。



家族が無くて孤独に育った私が、家族いう存在の尊さを語り、家族があって親として最低限の役目を果たして貰った人が、家族を切り離す…。
皮肉なものですね。

あなたにとっての「家族」とは何ですか?

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