夜中のキッチンに宿るもの
深夜1時。
共に暮らす犬が、お腹の具合が良くないので、ごはんに、鶏肉やお野菜を混ぜてコトコト煮て、明日の朝ごはんを仕込む…。
鍋をかき混ぜながら、ふと思ったのです。
これは、かつて多くのお母さんたちが子どものために当たり前にやっていたことなんだ、と。
勿論私もそうしてきました。
それが親として当然のことだと思って、誰に見られるでもなく、感謝されるわけでもなく
来る日も来る日も・・・。
愛された記憶がない…そう感じてしまう理由
「親に愛された記憶がない」という声をよく聞きます。
・優しい言葉をかけてもらえなかった
・褒められたことがない
・ハグやスキンシップがなかった
・ただ怒られてばかりだった
もしそれが理由だとしたら、それは本当に「愛されていなかった」のでしょうか?
それは、自分が欲しかった“かたち”ではなかっただけかもしれないのです。
お母さんの愛は言葉じゃなく“行動”
昔の親たちは、今のように「大好きだよ」と言ったり、ハグをしたり、感情を表現することが少なかったですね。
むしろ「甘やかしてはいけない」「厳しくしなければ」という時代背景がありました。
でも、その代わりに
● 夜中にお弁当の下ごしらえをする
● 雨の日に傘を持って迎えに来る
● 自分の服より子どもの靴を優先する
そんな「無言の行動」の中に、愛は確かに存在していたのです。
愛情の“かたち”は人によって違う
親も一人の人間ですから、いろんなタイプの人がいます。
● スキンシップが苦手な人
● 自分に厳しく、他人にも厳しい人
● 不器用で感情表現が下手な人
そういう親は、たしかに子どもから見れば「冷たい」と感じるかもしれません。
でも、不器用な人なりの、愛情を示しているのです。
それは、ごはんを作ること、汚れたものを洗濯することや、進学費用を捻出することだったりするのです。
見えなかった愛に気づくことは、自分を癒すこと
「愛されていなかった」と思い込んで生きると、人生全体がどこか冷たく、空虚に感じてしまいます。
でも、少しだけ視点を変えて、
“あの頃、気づけなかっただけの愛”があったのかもしれないと受け取れたら
それは、自分自身を責める気持ちからも、親を恨む気持ちからも、自由になれて、自分の存在を認めてあげる第一歩になります。
これは、愛以外の何だというのか
夜中に仕込まれた朝ごはん、子どもが寝たあとの部屋の片づけ、次の日の服を用意しておく。
母親たちは、それを「当たり前」と思ってやっていました。
でも、それは当たり前じゃない。
それは、愛以外の何物でもない。
愛なくして年中休みなく、そんなことが出来ると思いますか?
行動の元となるものは『想い』です。
全ての行動は『想い』から始まります。
今、もしあなたが“誰か”の為に手を動かしているのなら、
きっとあなたの親も、そうしていたかもしれない。
そしてそれは静かだけど、確かにあなたが愛されていた証なのです。
  
  
  
  
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