私は親からネグレクトに近い扱いをされたと思います。
何故かというと、父親は家族を養うこともせず
外に女の人を作って、物心ついた時には家にいなかったし、母親は、そんな夫に対する不満、生活の苦しさを全部私に向けて吐き出していました。
食事は与えられたけど、安心安全な環境ではなかったし、会話もなく、私の心は全く育ちませんでした。
母親と二人の暮らしは、10歳まで、
両親が正式に離婚した際に私は一旦、父親と新しいお母さんと暮らすことを決断しますが、一年程経ったある日、学校から帰ると、父親と継母が突如失踪したことを知り、終わりました。
なので、私が親と暮らしたのは12歳になる年の夏まです。
この記事の内容は、10歳までの母親との暮らしの記憶です。
母との暮らしは、今でも思い出すと、どうしようもなく気分が落ち込んでしまうほど、暗くて閉鎖的でした。
絶えず感情をむき出しにして、怒りを撒き散らす母親の眉間の皺と、下がった口角と、甲高い声は未だに、すぐに思い出せるほど強烈で鮮明な記憶として残っています。
「優しさ」「温かなぬくもり」「安心」「笑顔」
そんなものとは一切無縁な環境でも、何とか生き延びた私だけど、どうしても自ら不幸せや苦難の道を選んでしまうという、重大な「後遺症」が残ってしまいました。
この世界は、憎しみや怒りだけじゃなく、優しさやぬくもりもきっとどこかに在ったはず…
でも、私の目にはそれが映らない
私はそんな世界を知らずに育って来たから、
私の中には無いも同然なんです。
だから在っても見えない、感じない。
人の優しさは、何か違和感のある気持ち悪いものに感じて、無意識に無いものとして排除してしまっていた気がします。
親に愛されない子供ほど、親の役に立ちたい、親を幸せにしてあげたいと思うものです。
犯罪レベルの虐待を受けている子ほど、助けを求めることもせず、親から愛されたいと健気に努力しています。
私は、母親の感情のゴミ箱になることも厭わず、幼いながら親を全身で受け止めいたと思います。
でも私の精一杯の愛情は、あまりにも人として未熟だった親たちには、届きませんでした。
むしろ、わがままを言わない、我慢強い子として都合良く扱われました。
何をしても叱られる、笑顔を向けて貰えない
頑張っても頑張っても、私は認められませんでした。
私は、愛されるに値しない
私は、皆んなから嫌われる
いつしか、私は自分をそう思うようになっていました。
何かを差し出さないと、振り向いて貰えない
だって、私は嫌われ者なのだから…
そんな私だから、人とうまく関われなくて、必要以上に、親切にしてしまったり、自分の気持ちは後回しにしていました。
内心私はいつも孤独を抱えていました。
たまに友達ができても、
都合よく利用されるような関係性を、何度も繰り返してしまい、
どうして私はいつもこうなるの?
なんで私ばっかり?って絶望しました。
幸せになろうとしてるのに、気づくと自分に負荷をかける選択をしてしまっていたことに気づいたのは、まだつい一年位前のことです。
幸せが何なのかが、全くわからないのだから
選びようがないじゃない?
「寂しい」「怖い」「不安」がデフォルトだった人にとっては、そっちの方が自分に相応しい気がしてしまうのです。
うっかり「楽しい」「嬉しい」を選んでしまったら、何処か居心地が悪さを感じて、
私の居場所じゃない、場違いな気がして自分から壊してしまう…
そんなことを繰り返して生きて来ました。
親は子供に『幸せになってほしい』と願う
私の親でさえもそう言っていました。
よく言えたものだ!
どの口がそれを言う⁉︎と思います。
子供が当たり前に、何の迷いもなく『幸せを選べる人』に育つかどうかは、
親の生き様や、人としての在り方にかかってる。
つまり、親の教育とは、子供に何を教えたか?ではなく、子供に何を見せたか!です。
自分が不平不満を垂れ流し、人の悪口を言い
不幸せな生き方をしているのに、子供の幸せを望むのはただの親のエゴでしかありません。
子供に幸せになってほしければ、まず、親自身が真摯に自分と向き合い、他人の所為にせず
自分の人生を真剣に生きることです。
何をしてあげたかよりも、親がどう生きていたか
それを子供は見て育つのです。

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