毒親という言葉への拒否反応
なぜ私は、自分の親を「毒親」と呼ばなかったのか。
もっと言えば、なぜ「毒親」という言葉を聞いたとき、胸の奥で「うわ…」という拒絶反応が起きたのか。
私はその理由をずっと説明できなかった。
でも最近ようやく、深いところで少しずつ言葉にできるようになってきた。
それは単純に、親を責めたくなかったからでも、親を美化したかったからでもない。
私は親の未熟さや矛盾にもちゃんと気づいているし、感情的なすれ違いや心の距離も、
確かにあったと思っている。
でも、だからといって「毒」という言葉を選んでしまったら、
今まで自分が必死でやってきた“心の片づけ”のすべてが、台無しになるような気がした。
私はこれまでずっとずっと、自分の中にある重たくてしんどい気持ちと、向き合いながら生きてきた。
孤独感、不安感、焦燥感、おそらく誰にも理解されないであろう感覚…
それでも「自分を見捨てたくない」と思いながら、自分の心の部屋を少しずつ片づけていた。
いらない感情を一つひとつ手にとって、「この感情は何処から来た?」「悲しい?」「寂しい?」「どうしたい?」と、自分自身と対話しながら、毎日を生きてた。
でも、そんな時
「それって、毒親って言うんだよ!」
「あなたが苦しいのは、親のせいなんだよ」
そう言われた瞬間、私の心の中に巨大な荷物が“ボーーーーン💣”と投げ込まれたような感覚だった。
「えっ、ちょっと待って!ただでさえ私は大きな荷物を沢山抱えてるの」
「これ以上、荷物を増やさないで」
私は、部屋の隅でしゃがみ込んでいる自分を、立ち上がらせようと必死なのに!
本当のことを言うと、私は長い間、心の部屋の隅で膝を抱えて、動けなくなっていた。
明かりも届かない、誰も来ない、音のない場所で、
自分の体温だけを頼りに、なんとか存在していた。
本来なら、まだ親の庇護の下にいて当然の年齢だったはず。
守られて、励まされて、慰められていても良かった頃。
でも私には、それがなかった。
だから私は、自分で自分を慰めて、自分の力で立ち上がるしかなかった。
ようやく、親は何もしてくれない、自分で何とかするしかないんだと、自分と向き合い始めたときに、
「それ毒親だよ」「切っちゃいなよ、そんな親」
そんな軽さでラベルを貼られることが、
私にとっては“救い”どころか、“暴力”に近かった。
もちろん、「毒親」という言葉に救われた人もいることは知っています。
否定をする気持ちはありません。
でも、私にとっては違った。
それは、自分と向き合う作業を中断させ、せっかく片づけ始めた部屋を、もう一度ぐちゃぐちゃにされるような衝撃だった。
「毒親」という言葉には、怒りや憎しみや、被害者としての自己像がまとわりついている。
その世界に足を踏み入れた瞬間、私の人生のあらゆる場面が「毒だった過去」として塗りつぶされてしまいそうで、
私はその一歩をどうしても踏み出すことができなかった。
私は、自分の出自や過去を“毒”と名づけるよりも、
いまの自分を丁寧に見つめて生きていきたい。
“名前をつけることで安心したくなる気持ち”もわかる。
でも、私はその言葉に安心どころか、心の中の静けさを奪われてしまった。
だから私は、「毒親」という言葉を選ばなかった。
それは逃げでも、美化でもなく、
“これ以上、自分の部屋を壊されたくなかった”から。
それだけの理由
でもそれは、私にとってとても大切な選択だった。

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