『毒親と呼ばないで』

親は100%毒でしたか?

"傷"を自己紹介にする時代

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自分でレッテルを貼る時代

かつて「レッテルを貼られる」と言えば、
他人の評価や偏見を意味していた。
けれど今は、それを自分でやる人が増えた。
「HSP」「毒親育ち」「アダルトチルドレン」「毒親サバイバー」
そんな“自分で貼るレッテル”が、今ではSNS上の名札📛になって、まるで、この社会を生きるための通行証のように使われるようになった。

💬ラベルが生き方になってしまう

誰かに理解されたい。共感されたい。
その気持ちは誰にでもある。

けれど、わかりやすく共感をもらうために自ら「傷」を差し出すことは、私にはある意味、自虐行為に思える。
そのラベルはいつしか“身分証明書”になってしまうのに・・・
本当にその身分証明書は自分を幸せにするのだろうか?

「私は毒親育ち」「アダルトチルドレン」「HSP」そんな自己紹介が、自分を守る盾であると同時に檻にもなっていく。
安心と引き換えに、自由を失っていることに、気づかないまま。

💭レッテルという外的自己認識によって歪められた自己認識

思えば私たちは常に“レッテルを貼られる恐怖”を感じながら生きているともいえる。
親が子どもに、先生が生徒に、友達が友達に、ママ友、ご近所・・・
挙げればキリがない。

その中でも特に子どもが育つ過程で、「あなたは〇〇な子」「あなたって〇〇だよね」と、レッテルという”外的自己認識”は、子どもや未成熟な自己では「選別」ができないので、無意識に取り込んでしまう。
その結果、内的自己認識が歪んでしまう。
これは「歪んだ自己認識の形成」の典型的なプロセス。
そして、そのレッテル(外的自己認識)は、子どもの人格形成に大きく影響することは言うまでもない。
「※詳しくは『ラベリング理論』で検索してみてください」

親が毒親だったと言う人の中には、このレッテル貼り、つまり”決めつけ”に苦しんだ人が少なくないと思う。
どれだけ言っても理解されない辛さを味わったはずなのに、今度は自分で自分にレッテルを貼っている。それは一体何を証明するためのレッテルなのだろう。
私には理解が追い付かない。

どうせなら、「私は優しい人です」とか、「皆から愛される存在です」とか、そんな素敵なラベルを貼ればいいのに、何故か皆、それはしない。

🪞私は自分に単純にラベリングしない

私自身は、親によって人生を狂わされたし、もう少し真面な人間だったらなぁ、私の人生も違ったものになったのかもしれないと思うけれど、
「私の親は毒親で、私は毒親育ちです」という言葉で自分を説明したくない。
たしかに過去に耐えがたい痛みがあった。
それと共に生きて来たと言っても良い。
でも、その痛みの中にしかなかった“気づき”も確かにあった。

だから私は、誰かの作ったリストで自分を語りたくないし、誰から見てもわかりやすい“カテゴリ”の中に自分を押し込めたくない。
人って、もっと複雑で、多くの矛盾を抱えながら、いろんな側面を持って生きている。
だからこそ、単純な言葉で片づけられない。

そんな失礼なことを自分にも他人にもしたくない。
他者から勝手にラベリングされたくない。

私は、私が創った世界で生きている、唯一無二の存在。

📛名札を外しても立っていられる強さ

名札を持つこと自体は悪ではないし、そこに何を書くかは自由。
でも、名札や名刺は、あなたをわかりやすく現したもの。
それが他者との関わりや、社会で生きて行く前提になっているとしたら、どんな言葉を選ぶかは、とてもだいじだと思う。

私は、名札なんか外して、
何者でもない自分
何者にもなれる自分
そんなふうに生きて行きたい。

その方が可能性に満ちているから。

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