『毒親と呼ばないで』

親は100%毒でしたか?

毒親じゃなくて、毒になる親

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―言葉ひとつで、人を切り捨てないために


「毒親」と「毒を持つ親」の違いが、なぜ理解されないのか

人間は誰でも、天使と悪魔の両面を持っている。
優しさの裏にが裏切りがあり、愛情の裏に支配がある。
毒になる部分もあれば薬になる部分もある。
なのに、毒の部分だけを切り取って簡単に加害者のラベルを貼る人が増えた。
また、そこまで本気で毒親だと思っていなくても、軽々しく“毒親”という言葉を使う人もいる。
その軽さが私は怖い。

病気を持っている人が、病人とは限らない。
悪い心を持った人が、悪人でもない。
“毒になる部分”を持っている人が、毒親とは限らない。

もし自分が、親から「あなたは毒子」だと言われたら、間違いなくそれまで生きて来た人生や、自分自身を全否定された気分になるでしょう。

人を簡単に判断してしまうこと、それ自体がなんじゃないだろうか。


言葉が、人を遠ざけてしまった

「毒親」という言葉が広まったきっかけになった、スーザン・フォワードの著書『Toxic Parents』の日本語訳は『毒になる親』
そこに「毒親」という表現は一度も出てこない。
なのに、日本では毒親という言葉が広まってしまい、マスコミが特集を組んだり、親ガチャ外れなどという言葉も流行り、親を攻撃してよいんだという風潮が一気に広まった。
今や、専門家までが当たり前のように、毒親という言葉を使う。
せめて、毒になる親と言ってもらえないものかと思っている。

毒親は人物そのものを否定する言葉。
一方、毒になる親は、関係の中に一時的な“毒になる部分”があるという意味。
つまり、“毒”とは固定された属性ではなく、状況の中で生まれる一種の作用であり、その人そのものを表現する言葉としては、不適切であり、人格否定だと感じる。


母は、毒を持たなければ生きられなかった

生物が毒を持つのは、自分を守る為で、人間も傷つく度に鎧を纏い、自衛の手段として毒を持ったのではないだろうか。
母親も、一人の人間であることは、言うまでもないが、何故か、母親は人として尊重されず、世間からも、身内からも、子どもからも傷つけられることがある。
そして、それは殆ど同情されることもなく、母親が人知れず孤独感を味わっていることにも、なかなか気付いてもらえない。

そんな精神状態でも、いつ何が起きてもすぐに対応できるように、母親はいつも気を張っている。
仕事に出ても、家にいても、心はずっと“守りの姿勢”が通常モードで、気の休まる暇がない。
世の中が穏やかであれば、もう少し柔らかく生きられたのかもしれない。
けれど現実社会は、とても厳しい。
母の“毒”は、敵を倒すためではなく、自分を壊さないための毒だったかもしれない。


責任を果足しているだけですでに立派だ

親は、最低限の責任を果たしていることだけで、既に立派だと思う。
毎日ご飯を食べさせて、学校に通わせて、それを何十年も続ける。
それだけで、もう十分すごいことなのに、「毒親だ」なんて言葉を聞くと、思わずつぶやきたくなる。
ごはん、ちゃんとあったでしょう?
洋服着せてもらったよね?
裸で学校行かされたわけじゃないよね?って。
皮肉じゃなく、本気でそう思う。
子どもを育てるって、結構母親は自分を削っている。
責任という重圧に耐えながら、子どもが成長することを励みにして生きている。



シングルマザーが多い時代に

私自身もそうだったが、今の時代は、独りで子どもを育てている人も多い。
私は、ある時、「もっと人を頼ったら良かったのに」と、あまり親しくもない人から言われたことがある。
そう簡単に言われても返答に困った。
誰かに頼りたくても、何をどう頼ったら良いかわからなかったから、だからすべての荷物を下ろす日が来るまで、私はひとりで背負い続けた。

低空飛行で、お腹を地面にこすりながらでも、それでも生きられたのは、共に歩んでくれる子どもたちががいたからだ。

だからこそ、子どもに対して「育ててあげた」なんていう恩着せがましい気持ちは一切ない。
あの年月を生き抜く事が出来たのは、子どもが傍にいてくれたからだ。

シングルマザーでなくても、母親には色んな敵が存在するから、母親の責任の重さは差ほどかわらないのかもしれない。

そうやって戦い抜いて、ようやく責任という荷物を下ろしても、後悔したり反省したりするのが母親。子どもが覚えていないようなことを悔やんでいたりする。
なのに、子どもからの評価が、「毒親」だったとしたら、お母さんたちは返す言葉がみつからないだろう。


終わりに

“毒になる親”という言葉には、まだ希望がある。
関係を切り捨てるための言葉ではなく、もう一度、人として向き合うための言葉だから。

人間の中には、光も闇も共にある。
誰かを裁くためではなく、お互いの中にある“闇”を理解しあうために、母は毒を持っていた。
毒には毒を以て毒を制すという言葉がある様に、
母親にとって風当りの強い社会を生きぬくために、毒は、生きるための防衛だった。
無防備では、自分も子どもも護れない。
そんな世の中で、私たちは生きて、子どもを育てている。

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